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野球を始めたきっかけは、父親の影響が大きい。飯島小学校1年時、父親に引き連れられ、都市対抗の県大会を観戦するため、八橋球場に足を運んだ。大歓声と大応援団の中でプレーする選手が、実に格好よく映った。この光景が野球と生涯付き合う端緒となった。

小さいころは、学校が終われば田んぼで「野球ごっこ」をした。遊びと言えば「野球」しかなかった時代。夢中になって遊んだ。本格的に野球と向き合ったのは飯島中に進んでからだ。

当時の野球部は「本当に弱かった」と振り返る。が、指導者が野中和郎監督に代わり、スパルタ指導の下、チームはメキメキ力をつけてきた。とはいえ、中体連では代表獲得まで、あと一歩のところで敗退、目標であった県大会への出場は叶わなかった。

高校進学は秋田市立(現・秋田中央)からの誘いがあったものの、それを蹴って秋田商へ舵(かじ)をとった。その理由は、夏の県大会を観戦した時のシートノックに魅了されたのだった。当時の秋田商・古城敏雄監督の天まで届きそうなキャッチャーフライは、観衆を虜(とりこ)にした。さらに、選手の華麗なフィールディング。今でもあの時の記憶は鮮明に脳裏に焼き付いている。

2年時、内野手として西奥羽大会に出場するものの、甲子園には届かなかった。その後、秋田銀行へ就職、野球部の選手、コーチ、監督を歴任した。準硬式では東北大会に出場、国体、天皇杯など全国規模の大会にも選手として出場し、天皇杯では4強にも進出した。500歳野球大会では、平成17年、初出場で初優勝を皮切りに3連覇、選手、監督として存在感を示した。

現在、JABA県野球連盟の会長を務めている。社会人野球の魅力を「アマチュア野球の最高峰としての技術、スピード感、加えて企業と地域の一体感にある」という。県レベルに話が及ぶと「企業チーム、クラブチームとも全国レベルに近い力を持っている」と語った上で、「ただ単に硬式野球が大好き、自分たちだけで楽しみたい、というだけでプレーするのは、いかがなものか。高い技術とスピード感あふれるプレーを社会人野球ファンは求めているはず。さらには、野球を通じて社会貢献できることを、選手はもちろんファンや地域の人々にも理解していただきたい」。

野球の魅力の一つに「団体競技」だから、といわれているが、そのほかに「投げる」「打つ」「捕る」「走る」という一連の動作は、個々の選手がやらなければならない。こんな理由から「選手一人ひとりのレベルアップなくしては、強いチームはできない。個々の力量と『チームづくり』を並行することが、野球の奥深さではないか」と力説する。

小学校から今日まで、野球を通じて学んだことは、「学生は勉強、社会人は仕事を優先しながら野球に携わることが、アマチュア野球の本来の姿。その中で成長することでプロ野球選手への道が開ける可能性もある。多くの支援をいただいた企業、社員、ファンが選手を人間的に成長させてくれることを学んだ」という。

県内の野球に携わる選手や指導者にはこんなメッセージを送る。「野球という競技は計算づくではできないところが魅力で、面白いところ。したがって自分がやるべき練習を、自分の意識でできるようにならないと、勝つことは無理な世界と感じる。勝つか、果たして負けるのかは、神のみが知る領域だが、良い方向にベクトルが向くように常に準備は怠ってはならない。そのためには冬季のトレーニングを生かして、技術を身につけることや体力強化、状況判断、精神力の強化など、全員ミーティングで頭にたたきこんで(指導者と選手の)共通認識に努めることが必要。その一方で、指導者はチームと選手の長所、短所を把握することはもちろん、それを理解した上で練習プランを立て、県野球界発展のために尽くしてほしい」と、県連盟の会長として選手や指導者に檄(げき)を飛ばす。

「私にとって野球とは人生」という。その理由を「もし野球をやっていなければ、秋田銀行で『支店長』にもなれなかったし、人とのつながりも少なかったはず。勝ち負けがすべてではないが、人生と同じで得ることが集約されているのが、野球ではないか。すなわち『人生』です」と結んでくれた。


≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

保坂 兼也(ほさか かねや)氏
昭和23年生まれ
秋田県秋田市出身
JABA秋田県野球連盟会長
JABA東北地区野球連盟副会長
全県550歳野球大会実行委員 常任理事
秋田県野球協会副会長