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投手交代を告げられた瞬間、プロ野球を目指してきた男の惜別の時だった。

昨年9月、場所は多摩川グラウンド。読売巨人軍3軍との練習試合だった。この日のために、体調は万全に整えてきた。バックネット裏には各球団のスカウトが陣取っていた。昨年の同一カードでは1失点での完投を果たし、複数球団から調査書が届いた。が、ドラフトで指名されることはなかった。この1年、秦裕二コーチとも相談して腕の位置を下げるなど、投球フォームの改善に取り組んだ。すべて、プロへ進むための手段だった。

果たして、その結果がでたのか? 投球内容によっては当然、夢が実現する可能性を秘めた重要な一戦だった。もちろん、普段の試合とは比較にならないほど、気持ちの入り方は違っていた。

しかし、結果は伴わなかった。先発して6回7失点の散々たる内容だった。当然、プロへの道は閉ざされたが、自身、不思議に満足感を味わった、という。

物心がついたとき、すでに野球をやっていた。父・政仁さんの影響だった。熱狂的な阪神ファンの父は、地元の軟式野球チームの監督を務めていた。

小・中学校の戦歴は、これといって特筆すべきことはない。高校も六郷へ進学、いわゆる「野球エリート」が進む名門チームとは、かけ離れていた。

高校2年の春、地区予選でのことだった。走者として本塁へ突っ込んだ際、相手捕手と激突、左手首を骨折した。しかし、2カ月後には脅威的な回復をみせて、夏の県大会では「背番号2」を背負い、マウンドへ上がった。その試合、先発完投で勝利した。翌年の最後の夏は、古豪・秋田に敗れ、初戦で散った。

進路は、野球を続けることができる大学を最優先で探した。高橋寿宏監督(現・大曲農監督)と相談した結果、八戸工大へ進路をとった。大学では1年の秋にデビューを果たしたとはいえ、すべてのプレーにおけるスピード感に戸惑った。結局、4年間の在籍で優勝することは叶わなかったが、多くのことを学び、より野球にのめりこんでいった。

「将来も野球を続けていきたい」。こんな気持ちもあって、当然、就職も野球ができる企業を狙っていた。そして、ある企業からセレクションの参加日の通知が届いたものの、運悪く、北東北リーグの入れ替え戦と重なってしまった。事情が事情だけに「セレクションは何とかなる」と考えていたが、甘かった。結果、どこからもお呼びがかからず、狙いを定めていた企業への就職は、断念せざるを得なかった。幸い、その後、JR北海道に就職が決まり、函館駅へ配属された。

この「北の大地」で名門クラブチーム「函館太洋倶楽部」と出合い、野球と仕事に没頭した。そんな中、交流のあった独立リーグの友人に勧められて、同リーグのトライアウトに参加することを決めた。自身が夢見てきたプロへの足掛かりをつかむためだった。そして、富山の吉岡雄二監督から、右打者へのシュートを高く評価され、入団の誘いを受けたのだった。

誰にも言わずにトライアウトに参加したことから、評価を得たその後、両親と会社に報告した。が、親からは猛反対、会社からはJR北海道硬式野球部への入部を打診されたのだった。しかし、「プロへ進みたい」という気持ちに変化はなかった。最後は、本人の固い意志に両親も3年間の条件で、背中を押してくれた。

富山サンダーバーズに入団してからは、厳しい環境の中、必死で野球に取り組んだ。その甲斐あってか、球速もMAX145キロまで上がった。球団からの給料は3月から10月まで。野球に集中するため、バイトも球団からは禁止されていた。オフは野球教室などの収入でつないだ。だが、そんな環境も苦にはならなかった、という。「逆に、(野球に)集中できる喜びの方が強かった」

独立球団では、プロ野球へどうしたら進むことができるのか、を考えている選手ばかりで、全員がいわゆるハングリー精神の持ち主ばかり。したがって、一瞬たりとも気を抜くことを許せない世界だった、と述懐する。巨人の3軍との登板機会を与えてもらうなど、数多くのチャンスはもらった。だが、結果はついてはこなかった。父との約束通り、秋田に帰ることを決意した。「やり残したことはなかった。充実した3年間だった」と振り返る。

これまでの野球人生では、さまざまなことを経験し、学んだ。高校、大学、クラブチーム、独立リーグの監督をはじめ、スタッフにも感謝の言葉を忘れない。わがままを貫いた息子を応援してくれた両親には、「感謝」の2文字しかない。

将来を夢見る若者たちには、こんなメッセージを投げかける。「(野球を)続けていれば、いつかきっとチャンスは訪れる。チャンスをつかむ前に、それを捨ててしまう、あるいは挫折する人が数多くいる。道は険しくとも、最後まで諦めることなく継続することで、結果以上の喜びや満足があることを信じてほしい」と語る。また、「つらい時は、なぜか自分一人で背負っているように思いがち。周りで多くの人々が応援していることを、忘れてほしくない。自分という『チーム』がそこに存在しているんだから」とも。

「野球ってなんだった?」という問いをぶつけると、「(自分を)成長させてくれたもの」と返答してくれた。挨拶や人間関係、すべてを野球から学んだ、という。だから、野球にも感謝を忘れない。

現在、宮腰デジタルシステムズで働いている。硬式から軟式にボールが変わったことで不安があるとはいえ、チームの勝利に少しでも貢献したいと、意欲をみせる。「全国で優勝できれば、最高の恩返しですね。これまでの経験をすべてぶつけていきたい。勝負の年です」


≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

小柳 政彦(こやまぎ まさひこ)氏
平成3年生まれ
秋田県大仙市出身
仙北中―六郷高―八戸工大―JR北海道
大学卒業後は函館太洋倶楽部ー富山サンダーバーズ
昨年11月から宮腰デジタルシステムズ