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野球を始めたきっかけは、3歳くらいのときに、父親とキャッチボールをしたことが始まり。小学1年生で少年野球(軟式)の平野エンゼルスに入り、投手と捕手をやりながら4番で本格的に野球に取り組んだ。中学ではボーイズリーグ(硬式)のナガセボーイズに入り、エースで4番だった。

秋田の冬は寒かった
初めて訪れた秋田は「田舎だなあ」というのが第一印象。ただ、大阪と比べて空気がきれいで自然が豊か、環境はいいところだな、とも感じた。
初めて経験した冬は、雪合戦など楽しいイメージを膨らませていたが、実際は雪の多さに驚き、秋田の冬を少し甘く考えていた。その雪と同じくらい寒さも厳しかった。寮は暖房が効いて暖かいものの、寒いのが苦手な自分にとって、朝は布団からなかなか出ることができなかった(笑)。
練習では寒さ対策をしっかりとって、けがの予防にも神経を使った。室内での投球練習では、ストーブが必須アイテムだった(笑)。
自分の野球選手としての長所は、投手としては「速いボールを投げられる」ことで、打者としては「長打を打てる」こともそうだが、「場面に応じた打撃」と「右方向に強い打球を打てる」ことが最大の魅力だと思う。
野球の楽しさの1つは「対戦相手との真剣勝負」。もう1つが、上手な選手(チーム)がいれば「負けたくないという気持ち」が自然に出てくること。この2つを合わせて、自分が1番になることを目標にして楽しんできた。
投手と打者を比べたら、自分は投手の方が楽しいと感じる。投手はゲームをつくる上で中心であり、目立つ分、大変だが、その分やりがいがある。ストレートで三振を取った瞬間は最高の気分だ。


「喜び」と「不安」が交錯
3年間の野球生活を通じて一番うれしかったことが、2年時の甲子園出場だ。憧れだった夢舞台が決まった瞬間は「うれしい」が一番だったが、それ以上に県大会の決勝で痛めた右肩の不安と心配が、心の中にずっとあった。打者として試合には出たものの、チームに迷惑をかけた結果となり、悔しい思いが募った。(甲子園での)試合が終わった瞬間、来年もう一度この場所に戻ってくることを同期と誓ったことが思い出される。
甲子園の印象は大きく、グラウンドから見る景色は夢のような最高の舞台だった。打席に入るとバックスクリーンが非常に大きく感じた。できることであれば、まっさらなマウンドに上がれたら…と思うと悔しい。

吉田は予想超えた速さ
今までの野球人生で一番心に残っている試合は、今年の夏の秋田大会決勝だ。金足農に敗れた悔しさと、マウンドに上がれなかった悔しさ。そしてチームに貢献できなかったことへの悔しさがある。
その中で、金足農・吉田輝星投手との対戦では、夏の大会まではそれほど速いとは感じなかったが、決勝で対戦したときは予想を超える速いボールに驚いた。
その後の金足農の活躍は、見たくないほどだった。
一番感謝しているのは両親だ。秋田で野球をする環境をつくってくれたし、けがでほかの選手よりも多く心配をかけたし、本当に両親には感謝の言葉しかない。
父親は秋田で野球をするという決断にあたり、背中を押してくれた。しかし母親は、自分が一人っ子ということもあり、秋田へ来ることに、なかなか賛成してくれず「ほかに道はないのか」と離れたくない様子だった。でも最後は、「自分が選んだ道だから」と応援してくれた。
万全な状況ではなかったが、甲子園へ両親を連れて行くことができて、少しは恩返しができたかな、と思っている。

将来はプロ野球へ
今は高校野球が終わり、次の目標に向かってトレーニングをしている。進路は、まだはっきりとは決めていないが、チャンスがあれば将来はプロへ行きたい、と思っている。まずはしっかりと準備して万全を期し、目標を実現できるように頑張りたいと思う。
プロ野球への夢が叶うのであれば、球団はどこでもいいと思っている。目標とする選手は大谷翔平選手。投げても、打っても一流といわれる選手になりたいと思う。
「自分は野球をするために生まれてきた」と思っている。なので、今の自分は野球しかできないし、野球が生活の一部だと思っている。
最後に明桜高野球部員には、治療でチームを離れることが多く、主将としての責任を果たすことができなかったことを、大変申し訳ないと思っている。3年生の同期の仲間には、最後まで一緒に楽しく野球をやれたことに、感謝している。後輩たちには、自分たちが最後の夏に負けた借りを返すためにも、頑張って甲子園を目指してほしい。
輿石監督には、一緒に病院に行ってくれたり、指導してくれたりと感謝しかない。
来年は、全国で明桜高の名が知れ渡るように頑張ってほしい。


≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

山口 航輝(やまぐち こうき)
平成12年生まれ  大阪府出身
加美北小―加美中―明桜高
182cm
85kg
右投げ・右打ち