小学校に入って間もないころ、近所の子供たちと道路でゴムボールでの「野球ごっこ」で遊んだのが始まりだった。当時、漫画の「ドカベン」がはやっていたころ。それに触発されたのか、体の大きさから小学校のころからポジションは捕手だった。しかしながら、小、中学校での実績は皆無に近かった。
高校進学にあたっては、経付や秋田商に憧れていたが名将嶋﨑久美監督からの誘いもあり、さらには南秋地区の選手がこぞって入学する、と聞いて金足農への入学を決めた。嶋﨑監督の長谷川への期待の表れか、金足農入学後は1年春から試合に出場した。が、1年夏は秋田商に準々決勝、2年夏は秋田に決勝で敗れた。しかし、春のセンバツをかけた2年秋の東北大会は決勝進出を果たした。延長16回で大船渡(岩手)に3-4で惜敗したとはいえ、「センバツ切符」をほぼ手中に収めた。しかしながら、嶋﨑監督は果たして選抜されるのか、されないのかと、気持ちは「半々」の状態。そこで嶋﨑監督が当時行ったのが、部員から大ブーイングをかこった長期合宿。大船渡に敗れた翌日から甲子園へ向かうまでの冬期間、それは長かった。結果からみれば、翌年夏の大フィーバーを考えれば、この合宿は大成功といえよう。長谷川自身、この冬の練習では徹底的に体を鍛えた。意識したのは右方向へ強い打球を打つことだった。そして春、グラウンドに飛び出しての練習で、打球のスピード、飛距離が見違えるほどになったのはいうまでもない。 春の東北大会で当時の八橋球場のバックスクリーンのはるか上を超えた推定120メートルの本塁打は今でも語り草となっている。
昭和59年夏。甲子園大会が開幕してからは、金足地区の通りは人影はまばらだった。金足農の快進撃が野球ファンを魅了した熱い夏だった。準決勝では桑田真澄、清原和博らプロ予備軍の選手を抱えるPL学園と対戦。アルプススタンドの異様な雰囲気が漂う中「あわや」というところまでPLを追い詰めた。「もしかしたら金足農が勝つかもしれない」というムードもあったが、当の長谷川自身は「いつかどこかで(PLに)やられる」と冷静に試合を見つめていた。桑田投手のこれまでに見たこともない切れ味鋭いカーブと真っすぐのコンビネーションには「あんな球、見たことがないよ」と笑いながら話してくれた。試合は結局、その桑田に逆転本塁打を打たれて、金足農の長くて熱い夏は終わった。
青山学院大への進学については、夏の甲子園大会の期間中「捕手がほしい」と大学側から嶋﨑監督への打診があったことと、周囲の人たちの勧めもあって決めた。高校入学時と同様、大学でもやはり1年春からスタメンで4番。期待の大きさがうかがえる。当の本人は「高校も大学もチームがこれから強化していくタイミングにうまくはまったよね」と振り返る。4年秋には東都リーグで初の優勝を飾った。 卒業後の進路は大学時代の恩師・河原井正雄監督がホンダ出身だったことから、ホンダへの入社を決めた。ここだけの話、ドラフト前日に広島東洋カープの山本浩二監督から電話があり「指名したい」と打診があった。が、すでにホンダへの入社が決まっていたことから、丁重にお断りしたという。
ホンダでは現役5年、マネジャー1年、その後、現役復帰して1年、コーチ1年を経て、現役を退いた。若手の選手にポジションを奪われ、肩も痛い、やる気もそんなになかったころ、引退を勧告されたその時は「まぁ、そうだね」と意外に冷めていたという。いったん現役に別れを告げてマネジャーをやりながら冷静に野球を見ていたころ、「自分もまだできるのかな」と感じるようになった。体の故障も癒え、監督に相談して現役復帰をすることになった。体力を戻すことは大変だったが、代打の切り札として使われるまでになった。「現場から離れたことで野球を冷静に見られたし、プレッシャーもなくなったことがよかったんじゃないかな」と振り返る。
都市対抗優勝を機に野球部から離れてからは、資材の仕事に専念した。エンジンの仕組みを理解するため3級整備士を取得した。将来を見据えて教職課程取得のため夜間の大学にも通った。「母校の金足農にも教育実習に行った」(笑)。そして海外勤務も経験した。ある意味、「社会人生活」を謳歌していた2011年、監督要請の内示が出た。プロジェクトリーダーにもなっていたことから「いまさら」という気持ちがもたげたが、なにせ「業務命令」。戸惑った。野球部から離れた14年の期間で社会人野球は金属バットから木製バットへ変化。さらにはルールの変更…。なによりも自身の野球への感覚を取り戻すことが、難しかった。長谷川が一番心配したことは、都市対抗に7年連続で出場していたことが、自分が監督に就任することで途切れることを一番恐れた。悩んだ末に監督就任の打診を受けたのだが、スタッフには現役に近い人材を配置して、自身が不足している個所を補った。
嶋﨑監督と河原井監督に影響を受けたものの、監督として自分の色を出すことはしなかった。しかし、選手の目標設定や修正などには時間を費やし、細かく話し合いをし、アドバイスを送る。あくまでも選手が中心との配慮からである。一人一人の人間性を把握し、適材適所で活躍できる環境を準備する配慮はさすがである。「環境は監督が準備する。選手は個々の目標に向かってまい進させる」が長谷川流のスタイル。目標の意思統一のために選手との会話も重視したという。戦略はコーチの意見も取り入れた。嶋﨑監督と河原井監督に共通していた勝ちに対する執念にも、もちろん影響を受けたという。最終的に監督としての在籍6年の戦績は都市対抗出場5回。日本選手権4回(準優勝1回)という自身に及第点を与えられるものだった。
監督としての苦い思い出として残っているのが日本選手権の決勝戦だった。高校時代、あれだけ嶋﨑監督の1点に対するこだわり、スクイズへの執着を垣間見てきた長谷川だったが、その時ばかりはスクイズのサインを出すことができなかった、という。体が動かなかったとも。「もし、スクイズのサインを出すことができたならば、優勝していたね。自分の弱さを感じたし、あらためて嶋﨑監督の凄さを痛感させられました」(笑)
野球人生でもっとも記憶に残っているのが、この日本選手権の敗戦と、もう一つが高校2年の夏の秋田大会決勝戦の敗退だった。圧倒的な「金足農有利」の下馬評だったが、秋田1年投手・太田政直に完封されてしまった。「負けた時はこうやって涙が出るんだな、と思うくらい泣いた記憶がある」。
現在、長谷川の野球に対するスタンスはマスターズ甲子園で楽しく野球にかかわりを持てればいいと感じている。もし、高校野球や大学野球での監督の要請があれば、との問いには「タイミング」とまんざらでもない表情を浮かべる。「人生において野球はすべてに役立っている。人とのつながりもそうだよね。それらは自分が構築してきたものだけれど、それだって野球をやってこられたお陰だよね」 野球とは、「自分をつくってくれたすべて!! 育ててくれたすべてだよ!!」
~編集後記~
トップダウン方式の嶋﨑監督と、自主性を重んじる河原井監督からの指導を受け、それらに自分の経験をミックスして監督像を完成させた長谷川監督。捕手ならではの目線で鋭く野球を観察する姿はさすがだ。一時は高校野球の監督に憧れて、教職まで取得した。タイミングが合わず、社会人の監督に就任し、母校・金足農野球部の監督は夢に終わったが、続きがあるに違いないと信じている。いつか秋田のために、あるいは金足農のために監督として帰ってくることを夢見ている。
≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫
~ profile ~
長谷川 寿(はせがわ ひとし)氏 |